北方領土問題の歴史と領土問題を考える 2月7日は北方領土の日『今日というミライグラフ365』
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2月7日 今日は何の日!?
2月7日は、北方領土の日です。
日付の由来は、1855年2月7日(安政元年12月21日)に、日露和親条約が結ばれ、北方領土が日本の領土として認められたことに由来し、1981年に日本政府が制定しました。
今日は、北方領土の日にちなんで、日本の領土とされながら、ロシアの実効支配が進んでいる、北方領土についてのコラムです。
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北方領土とは!?
北方領土とは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島、及び、内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域のことで、北方地域とも呼ばれます。
場所は、北海道よりも、さらに北東に位置し、北海道の一部の地域とされています。
この地域の大きさとしては、面積は約5,036 km2で、千葉県(5,081.91 km2)とほぼ同じ広さです。
ニュースでもよく出てきますが、『北方領土問題』とは、この地域のことで、日本の領土でありながら、ロシアが実効支配し、人口が、島々を合わせて約17,000人ほど住んでいます。
江戸時代に作成された、『正保御国絵図』には、松前藩が支配している蝦夷地として北海道本島、樺太、千島列島が記され、国後島や択捉島も記載されています。
その頃には、アイヌの人々が暮らしており、日本人もアイヌ調査として訪れています。
また、その頃からも、ロシア人ではないかとされる外国人が、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録や、3名のロシア人とされる外国人が居住し、アイヌの中に正教を信仰する者もいたと言われています。
北方領土についての歴史
1855年2月7日(安政元年12月21日)に、日露和親条約が結ばれ、北方領土が日本の領土として認められ、択捉島と得撫島の間を国境線としたところから、この問題の大きな歴史がはじまりました。
それでは、そこからの北方領土についてのおおまかな、歴史の流れを見ていきましょう。
1875年に、日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル群島(le groupe des îles dites Kouriles)」を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領としました。
そのあと、日露戦争後に、ポーツマス条約により南樺太が、日本に割譲されました。
しかし、世界大戦時に、ソ連対日参戦やその後の戦争があり、最後に日本の戦争の降伏と同時に、ソ連が実効支配し、ロシア連邦になった今でも引き続き、実行支配されたままというのが続いている状況です。
この状況は、日本は負けたことにより、多くの支配した国を返還しましたが、ソ連は勝利により、実効支配を続けているという状況で、アメリカなどは、日本の領土として、支持をしているものの、現状でも支配されている状況が続いてます。
長い歴史の中の領土問題であり、難しい問題ですが、私たち日本人としては、知っておきたいことです。
今日のミライポインツ!!︎
今日は、北方領土についてのコラムでした。
領土問題といえば、世界大戦が終わった現代でもなお、世界平和をおかすように、いくつかの隣国の国々が問題を起こしてきます。
隣国の国々には、平和を願っていないのか・・と本当に考えざるおえません。
まるで、子供のようです。
どうしたら、そんな発想が出てくるのか・・という印象しか受けません。
日本は、平和で戦争をしない国であるからでしょうか。
本当に、私たちにとって、あらためてですが、平和であることが一番の希望ですね。
今日の毎日の記念日は何の日か、スピーチや、朝礼の話のネタなどにお使いください。
それではまた
新しい1日をミライグラフで!!